Putting Up a Sign on the Sea / 海に看板を立てる
2023, Video, 3 min 22 sec
Cooperation: Kazuya Matsuhashi
English Statement
While taking a walk, I noticed “For Sale” (売地 in Japanese) signs on various vacant lots. Seeing these signs repeatedly in Tokyo, where I live, led me to ponder the concept of property rights, especially regarding land that was once unclaimed by anyone.
On land, we assert boundaries—“from here to there is your land”—to define ownership and convert it into capital. Initially, I created my own “For Sale” sign and placed them in various spots like narrow streets, empty lots, and shorelines, attempting to claim these spaces. However, because my signs closely resembled real ones and blended naturally into their surroundings, they failed to transform these areas into capital.
This experience led me to think about how one might “capitalize” the sea. As a sea kayaker, I navigate this abstract, ever-shifting space that, unlike land, resists clear boundaries. The tides constantly reshape the sea’s borders, making it impossible to mark with lines as we do on land. Though my attempts to put up a sign on the sea, I began to wonder: can we ever convert the abstract, fluid nature of the sea into something as concrete as property?
日本語ステートメント
家の近くを歩いている時に空き地に看板が立てられている光景に何度か出くわした。看板には「売地」と書かれていた。元々は誰のものでも無かった土地を売ることを考えることによって、「所有権」について考えるようになった。
陸では「ここからここまでがあなたの土地で、ここからここまでは私の土地です」というような線引きを行うことにより、所有つまりは資本を生み出す行為へと変化している。最初は看板を作成し、街中あるいは海辺に置くことで、その土地を私のものにできるのかということを考えながら制作していた。しかし、陸上では看板が精巧に出来すぎていることとによって自然さが生じ、私は私が選んだ土地を資本化することに失敗していた。
その代わりに、海を土地として資本化することは出来ないのかと考えるようになった。海を資本対象として選んだ理由は、私がシーカヤックを移動手段とした旅をしているからである。海は陸とは異なり、抽象的な存在である。陸のように明確な線引きはできないし、潮汐によって海の範囲が毎日変化するからだ。看板を海に立てようとするパフォーマンスを通して、「私たちは具体性のない海という存在を土地として資本の対象とすることができるのだろうか」と考えていた。
制作ノート
私が住んでいる街を歩いていると「売地」と書かれている看板を目にするようになった。当然「売地」なのだから、看板が立てられている場所は空き地になっている。その空き地の両隣には住居などがあって、道路に面している場所には立ち入り禁止ということがわかるトラロープが張られている。
私たちは普段「ここは自分の場所で、あそこは誰々さんの場所で、あっちはあの会社の場所で」などと何となくだけど線引きをしながら生活していると思う。線引きをすることによって、自分自身が何かのトラブルに巻き込まれないようにしているのだろう。この予防線は私たちが生活を送る上での快適さにも直結していくものでもあるから、ある程度は必要なのかもしれない。
私は「売地」という看板を幾度も目にする度に、「なんで土地っていうものは売られるようになったのか」とか「そもそも土地っていうものは誰かのものだったのか」などという答えのないような疑問を抱くようになっていった。
私は移動の手段としてシーカヤックを使用している。海にも陸ほど明確ではないけれども、線引きがされている。大きなところで言えば、国境線とか排他的経済水域が思い浮かぶと思う。こういうものに加えて、沿岸でシーカヤックを漕いでいると、小さな線引きに出くわすことが何度もある。例えば「危険のため立ち入り禁止」とか「プライベートビーチのため上陸禁止」などと書かれている看板だ。国境線とか排他的経済水域とか海上にあるものではないのだけれど、線引きがされている。
「危険のため立ち入り禁止」という看板は、だいたいどこかの企業が資源開発を行っていたり、それらの資源を精製する場所に存在する。そういえば、「火器厳禁」なんて書かれている看板もあった。大量の資源を運搬するためには、巨大タンカーを利用した海上移動が最も効率的だから沿岸に資源開発のための施設が建てられている。企業側がその区域を所有し、部外者の上陸を制限することで何かが起こった際の危機を回避するということは理解できる。だけれども、どこかそこにある心地の悪さのようなものを払拭することが私にはできない。この島は元々誰のものでもなかったし、あるいは先住民という言葉が正しいかどうかは分からないのだけれども、彼らの土地だったはずだ。
「プライベートビーチ」という言葉は多くの人にとって、とても響きがいい言葉に違いない。夏の休暇にどこかのホテルに滞在し、そのホテルが所有しているらしい「プライベートビーチ」というものを利用する。人気の海水浴場とは異なり、利用者は少なく、ゴミも落ちていない理想的な保養地だ。利用客は「私たちだけのもの」という排他性を手にいれることにより、気分が良くなるはずだ。だけれども、日本では「春分及び秋分の満潮時において海面下に没する土地については、私人の所有権は認められない」ため、厳密な意味でのプライベートビーチは存在していない。加えて、沖縄県においては、「海浜を自由に使用するための条例」及び同施行規則が1991年4月1日に施行されている。この条例の内容は「公衆が海浜へ自由に立ち入ることができるような適切な侵入方法を確保すること」、「公衆の海浜利用または海辺への立ち入りの対価として料金を徴収しないこと」とされている。「海人」という言葉があるように、沖縄県らしい条例だ。実質的という名のグレーゾーンは権利の独占を生み出す。
管理されることにより得られる安心感は、権力への従属につながり、逆説的に私たちの自由を失わせることになる。
私たちは普段何かを「所有」することにより、他者との「線引き」を行い自由を得ていると考えている。「所有」することが「自由」への一歩だったとしたら、なぜそれによって、ある場面では「不自由」を被ることに繋がってしまうのだろうか。