積丹半島カヤック紀行6 15, May, 2025, #22
いつも通り5時に目を覚ます。昨日の活気さは静まり返っているが、早朝にも関わらず朝の散歩を楽しむ人がぽつりぽつりといた。トイレに行く途中に夕飯を作る際に使っていた炭の香がそこかしこから匂ってきて何かを焼きたい気持ちに駆られたが、私は辛ラーメンに向き合う。持って帰る荷物が増えてもしょうがないので消費しておきたい。朝食を簡便に済ませて、夜露で濡れているカヤックにパッキングをして静かな美国の海を後にした。この日も海況はよく、漕いでいて気持ちがいい。当初は小樽を最終目的地と考えていたが、港湾都市でカヤックで上陸する場所がなさそうだったため、手前の余市へと帰着地点を変更した。20kmの移動は昨日と同様に単調な光景が続き大変退屈だったが、余市の浜中・モイレ海水浴場が目に入ると、もう漕がなくていいことに安堵しパドリングのピッチが自然と上がってきた。
浜中・モイレ海水浴場は「モイレ」という響きが持つなんとなくオシャレな感じとは程遠いただのだだっ広い浜だった。後で「モイレ」という言葉の意味を調べたところアイヌ語で「静かな水面」や「ゆったりと流れる」という意味だそうだ。この日の海況はモイレという言葉にばっちりと合っていた。人が来なさそうな場所に着岸し、テントを組み立てて諸々の装備品を乾かす。風呂に入りたかったため夕方頃まで余市川の周りをぶらぶらとしつつ、宇宙の湯余市川温泉へと向かう。温泉の建物の上には宇宙船の模型が鎮座していた。余市は毛利衛さんという宇宙飛行士の出身地で、街をあげて宇宙との交信を行なっているようだった。温泉を出ると午後8時近くになっており、夕飯をどこで食べようかとGoogle mapsと睨み合いをする。殆どのお店が閉店していたりと選択肢がない中で、浜中・モイレ海水浴場近くの『エベレストインド・ネパールレストラン』というお店だけは遅くまで営業していたため寄ることに。たらふくカレーを食べている時になって北海道土産を何も買っていないなと(普段は荷物になるため何も買わないのだが)、ふと思い立ちここのお店でお土産を買って行くことにした。長いこと誰も買っていないからか香辛料の匂いが染みついたポシェットとステンレスでできた本格的なカレー皿をお土産とすることにした。このお店のネパール人店員は住居スペースである2階に住み込みで働いていて、日本の数都市のインドやネパール料理屋を転々としてきたという。将来は自分のお店を東京に持ちたいとまで話してくれた。店員の顔はすっかり忘れてしまったのだが、どこかで自分のお店を構えていると良いなと思う。雲一つない星空眺めつつテントへと歩いていき、波の音を聴きながらシュラフに潜り込んだ。
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積丹半島カヤック紀行5 15, May, 2025, #21​​​​​​​
翌日は前日の予報通り、ほぼベタ凪だった。昨日の苦労と心労(これは単なる経験不足なのだが)が嘘であるかのように神威岬を容易に超えることができてしまった。荒れていない海における暗礁は明確に目視することが可能で、ごつごつとしたロックガーデンはちょっとした面白い遊び場になる。勿論フォールディングカヤックを使用しているため、ボトムの傷には最新の注意を払わなければいけないのだが、カヤックを操船し岩と岩の間をすり抜けることは単純に楽しい。テントの中でこの日の大体の目的地を美国漁港海岸と定めて出発する。実に気持ちよく漕げるカヤック日和だったのだが、左側にはただ青色が濃い海原が茫漠と広がっており、右側には積丹半島の地層が露出している光景が延々と続いていた。陸路での旅だったらトンネル観光となってしまい地層を見れることはないのだが、こんなにも地層が続いているともういいよと叫んでしまうほど辟易してしまっていた。
昨日は大した距離を漕いでいないのにも関わらず、久しぶりのシーカヤック旅だったからか身体がついていかず、美国までの30kmちょっとを漕ぐだけでもかなり疲労してしまった。この文章を書いている今だと(2025年5月現在)30kmの距離なんて景色を楽しみながら、どこかに寄って昼飯を食べ昼寝までする余裕があったりもする距離感なのだが、この時は漕ぐのに必死でそんな余裕も無かった。美国漁港海岸に着いたはいいのだが、北海道の人たちが短い夏に海水浴やキャンプをしに来る場所として有名だったようで、あまり広いとは言えない浜に所狭しとテントが並んでいた。人がいない方が好きなのだが、キャンプができそうな浜を目指すほど時間も体力も無かったため、人気が少ない場所にテントを張りこの日は美国で一晩過ごした。疲労で写真は一枚も撮っていなかった。
積丹半島カヤック紀行4 15, May, 2025, #20
昨夜にちょっとしたトラブルがあった。私がテントを張っていた浜に家族連れが2組来て、バーベキューや花火などをし始めた。夜になっても声が大きく、近くに停めてあった車のヘッドライトが付けっぱなしで、私のテントに光が直撃していた。そのため、ヘッドライトの光をどうにかしてくれないか、と話に行ったところ、「ここの浜は私たちの知り合いの私有浜で許可を貰っている。だから何をしても勝手だし、寧ろ君がテントをここに貼っていることの方が問題だ」という趣旨のことを言ってきた。
隣にある漁協は漁業組合の管轄であることは理解できるが、「私有浜」なんて言葉を聞いたことがなかった私は戸惑いを感じながら、テントへと戻って行った。それでも話した甲斐があり、少し経ってその家族連れは車のヘッドランプを消しにきていた。
後の話になるのだが、2023年度の美学校の修了展において制作した『At Sea / 海にて』というインスタレーション作品は積丹半島での一夜の経験が多分に生かされていると思う。
日本では「春分及び秋分の満潮時において海面下に没する土地については、私人の所有権は認められない」と法律で定められており、「私有浜」なんてものはほぼ存在しないことが分かった。ニュアンスの近い言葉としてリゾートホテルとかが高らかに謳っている「プライベートビーチ」というものもあるが、これはグレーゾーンで管理者が建物等でいかなる浜辺への経路を塞ぐことはあってはならないのだ。さらに沖縄県では「海浜を自由に使用するための条例」及び同施行規則が1991年4月1日に施行されている。この条例の内容としては「公衆が海浜へ自由に立ち入ることができるような適切な侵入方法を確保すること」、「公衆の海浜利用または海辺への立ち入りの対価として料金を徴収しないこと」とされていて、流石は沖縄県だと関心する。
私が風光明媚な場所でシーカヤックを漕いでいると、「プライベートビーチのため上陸禁止」と記載されている看板が海側から散見されることが多い。リゾート開発を謳い山を削りホテルを建てる際に出る赤土は海に流れ込み、その土砂で生態系の均衡は崩れる。漁師は漁獲高が減少し、陸での仕事をせざるを得なくなる。「リゾート」や「プライベートビーチ」という響きが良い単語が持つ価値観は陸での視点しか持ち合わせていない底が知れている人間が抱くものでしかなく、海側からの視点を得た人間に言わせてみればそんなこと知ったこっちゃないのだ。満潮の際に視界から消える浜に行き、ここからここまでは私のものだと線引きすることはできるのだろうか。
リゾート開発とはあまり関係ないかもしれないのだが、例えば私がカヤックを用いて瀬戸内海を横断していた際に野営した柱島で出会った漁民の夫婦は、海水温の上昇で魚が採れなくなったから、仕方なく切り干し大根を作っていた。彼らが漁を行い生活の糧を得ていた際に培ってきたアイデンティティや知恵はちょっとしたことで現代ではすぐに喪失する。自身のアイデンティティの喪失に直面したら、私だったら土台耐えられるものではないはずだ。まぁ最早システム化され均質的な環境で生活している現代日本人にとっては、哲学的に自分自身の物語の固有性を求めたりすることなんて無理な話で、寧ろそういったものを求めない方が幸福なのかもしれないが。
話が脱線してしまったのだが、シーカヤックを初めてから私の作品制作に対する態度が大幅に変わってしまった。それは日本が海で囲まれているが故に生まれる政治的な場所性を抱えており、私たち自身を反射する鏡としての役割を果たしていることに気がついたからだ。私は写真専攻だったのだが、前述したことが原因で海が持つ複雑性を写真という媒体のみを通して表象することは不可能だなと感じた。シーカヤックでの旅が私の表現手法を解放してくれたのだ。大仰に言えば美学校での修了展はそんな私の世界への最初の態度表明だったと思う。
相模湾横断 11, May, 2025 #18
天気図を確認すると5月8日には等圧線の間隔が広い高気圧が本州を覆っていた。この日しかないなと思い立ち、1ヶ月振りのカヤックにも関わらずに相模湾を横断することに。前日の17時過ぎに逗子駅へと到着する。本来であれば休みの日だったため、適当に漕いでウォーミングアップでもしておきたかったのだが、カヤックを分解清掃していたために時間が掛かりこの時間になってしまった。目指す真鶴岬の山並みは薄らと見える程度で、これまで横断したことの無い距離であったために、遠くに感じる。カヤックを組み立てて、行動食を夕飯代わりに食べ7時半頃には就寝した。雨避けのために高架下で眠っていたために、夜中に何度も人が通りあまりよく眠ることはできなかった。
3時半頃に起床し、出発の準備を行う。この日の最大風速は北風3.5mほどで海況も悪くなく、日の出の時刻である午前4:40分頃に逗子海岸を出発した。
新しく購入したSILVAのカヤック用コンパスが真鶴岬の方角である南西方向を指し続けるように、櫂(パドル)のみを用いてカヤックを操船していく。長距離を横断する際には多くの場合、体力の減少を最大限抑えるためにも梶(ラダー)を使用してカヤックを操船する。これによりパドルを使用してスウィープストローク(カヤックを旋回させる漕ぎ方)をする必要がなくなり、フォワードストローク(前身する漕ぎ方)だけに集中することができる。しかし、私はカヤックを購入してから3年弱経つにも関わらず、ラダーは高い(2025年時点で66000円)という理由で未だに購入に至っていないのである。そのため、風が強い中でスウィープストロークをする度に、異常なほど体力を持っていかれるということがこの3年弱の間に何回も経験してきた。
漕ぎ始めてから2時間弱で11km程度進んでいた。この地点から北風が予報に反して5-5.5m程度吹いてくるようになり、少しやばいかもしれないなと思うようになってきた。というのも横断する際には岸から離れるため、簡単に逃げることができないのである。それに加えて、カヤックは風上側に向くという特性を備えているため、真鶴岬のある南西方向に進みたいにも関わらず私のカヤックの船首は北を向き続ける。ラダーが無いため、スウィープストロークで何度もカヤックを旋回させるのだが、キリがなく体力だけが奪われていく状況になっていた。
山でのアウトドア活動を比較すると海は自身が被る様々な要因が多い。風浪、潮流、海流等が主なものだが、それらも局地的に受けるのではなく、ハワイ辺りのうねりが相模湾まで影響したりするため、漕げなくなることが多い。気長に待つことができる私のような暇人には性に合うものだが、サラリーマンのように休みの期間が決まっており、無理矢理でも目標地点までに行かなければと思ってしまうようなタイプにはカヤックは全く向いていないと思われる。山と比較しても死ぬ要因が多いのだ。そのため、割と長くカヤックをやっていると自然への諦念が生まれてくる。この時も何回もスウィープストロークを繰り返すよりは、フェリーグライド(風に流されない操船方法)をしながら対岸を目指した方が体力的には全く疲れないだろうと思い立ち、兎に角風には逆らわない(というか逆らえないのだが)方針で漕ぐことにした。
2時間ほど西方に向かってフェリーグライドをしていると風が弱まってきたため、方向転換をし真鶴がある南西へと漕いでいった。その後は風は強くとも2m程度になり、北東風がもたらしてくれたうねりも活用し、割と早いペースで真鶴へと到達した。ここまでで大体9時間ほど掛かった。
シーカヤックを始めてから、相模湾横断は1つのノルマのようなものと思い込んできたのだが、逆に私は私自身の内的な地平が広がりを見せなかったことに戸惑ってしまった。ただ長い距離を漕いだという事実だけがそこにはあった。
真鶴岬は岩場が多く、上陸が面倒臭いことはわかっていたのだが、脚を伸ばしたいこともあり上陸できそうな窪地を目指していった。しかし、その窪地には訳の分からないグランピング施設のようなものがあり、まぁまぁ暗礁もあったため、一気に上陸する気力を失くした。そのため三ツ石を超えたところで、ほぼ無風の状態になった海上で昼寝をすることにした。海上での昼寝はカヤックがハンモック代わりになるため、心地の良い波があるといつまでも眠ることができる。20分ほど気絶したように眠り、帰着地点にしていた湯河原にある吉浜までゆっくりとカヤックを漕いでいった。
湯河原では平日にも関わらず、大勢のサーファーが気持ちよさそうに波待ちをしていた。いつもはサーフィンなんぞやりたいと思わないのだが、この時ばかりは疲れなさそうで羨ましい気持ちになってしまった。吉浜は火山灰を含む砂浜が広がっており、カヤックをパッキングするのにいい場所はなかった。その上、道路に出るために数十段はある階段を上らなければいけないことには辟易した。1時間多く漕いで熱海サンビーチを目指した方が、片付けは楽だったなと思いながら、湯河原駅までの道のりを歩いて行った。
2024-25 年末年始 伊豆半島の旅 - 4 11, May, 2025 #17

1日
何時に起床したかは正確な時間は忘れたのだが、4時ぐらいだったような気がする。朝食には昨日残しておいてお餅を食べ、カヤックにパッキングをし、朝日が出る前に出発する。初日の出を海の上から拝むのは人生で2度目だ。1度めは2022年から2023年に掛けて瀬戸内海を横断していた際に見たのが最初である。その時は西から東へと向かってカヤックを漕いでいたため、真正面から初日の出を拝むことになった。真冬の朝一に太陽の暖かさがドライスーツ越しの身体に染みこんでいくことを感じ、なんて暖かいんだと感動していた記憶がある。一方で南伊豆は瀬戸内海よりも気温が高いが故に、そのような感動体験を味わうことも無かった。寧ろ朝日が眩しすぎて早く真上まで上がってくれないかと鬱陶しさを感じていたほどだった。
太陽を横目に下田へとカヤックをパドルで着実に進めていく。早朝の天気予報で分かっていたことではあるのだが、西高東低の冬型気圧配置がバッチリと決まっており、石廊崎越えは無理だなと諦めて、当初の予定よりも大分短いのだが、下田を帰着地としたのだ。下田まではたった15kmの距離だったのだが、南端付近では海流と潮流が入り混じり、昨日からのうねりも加わった海の動きに身体が痺れ、少々酔う。気持ち悪さと共に下田港入りを果たすと、正月にも関わらず釣り人たちが点在している光景が目に入る。流石は伊豆だなと関心しながら、カヤックを陸に上げた。
2025 年末年始 伊豆半島の旅 - 3 11, May, 2025 #16
31日
夜中から風が上がってきた。爆風に起こされ、カヤックの上に干しておいたドライスーツをはじめとする装備品が飛ばされていないか心配になり、テントから這い出る。装備品はカヤックの周りに落ちていたため安心した。だが最悪だったのはカヤックのコクピットとスターンを開けっぱなしにしておいたため、カヤック内が砂まみれだったことである。フォールディングカヤックを所持している人なら理解できると思うのだが、カヤック内が砂まみれになると、その砂の処理を考えると途方に暮れるのである。この日は北西風が吹き荒れており、停滞日ということもあったため、取り敢えず後でやることにし放っておいた。
昨日は3ヶ月振りにカヤックを35km程漕いだものの、思っていたほど筋肉痛になっていなかった。強いて言うならば、僧帽筋が少し張ったなという感じがあった。1ヶ月間ではあるが、トレーニング用のゴムチューブを使ったローイングと腹筋ローラーを日々行っていたた成果が発揮されたようだった。昨日の調子であれば45-50km程も時間が許せば漕げるなと思い、日々のトレーニングも怠らないことを誓った。
何もすることが無くなったが、身体は動かしたいとの気持ちがあり、下見を兼ねて下田まで海沿いの道を歩いていくことにした。伊豆の山道といってもコンクリートの道路なのだが、そこから見える景色は清々しいものだった。眼下には海が茫漠と広がっており、遠くには伊豆大島を始めとする伊豆諸島が絵画における空気遠近法のお手本のような姿で点在している。もう少し実力を付けたならば、私もあの島々にカヤックで渡り巡ることができるのだろうかと考える。
下田に行く途中で腹が減ったため、海鮮系のお店に入り賄い飯が一番安かったため注文した。味はあんまり美味しくなく、入る直前に店の看板が微妙だなという直感に従うべきだったと後悔した。これなら、ラーメンとかでも食べたほうがマシだった。
南伊豆には小学校を卒業するまでに家族旅行で毎年通っていた一棟貸しの『しいの木やま』という宿があった。現在では宿の営業はやっていないのだが、レストランだけは営業しており、地物を使った料理が非常に美味だった記憶がある。あんまり美味しくない海鮮賄い飯を食べている最中に思い出したが、後の祭りで、昼の営業時間もまもなく終了とネット検索では出ていた。次回の楽しみとし、下田まで残りの散歩を楽しんだ。
キャンプ地の最寄り駅である河津へと伊豆急行で帰還し、年越しに備えて近くのスーパーで切り餅を買い込む。河津浜へと戻ってきた時には、強風でさらに砂が舞いカヤックが砂だらけになっており、唖然とする。私がキャンプ地としていた海岸には水道がない為、仕方なく取り切れる分だけ洗車用スポンジで砂を掻き出すことにした。1時間程を掃除に費やし、なんとか綺麗になったものの、後から更に綺麗にすることを考えると途方に暮れそうになった。
掃除も終えて、やっとのことでテントで餅パーティーを一人粛々と行う。餅を焼くための網を忘れてしまったために、餅をコッヘルに乗せて焼くことにした。不思議なことだが、餅はいくらでも腹に入る。切り餅一袋の7割ほどを食べたところで、明日の朝分にでも残しておくかと思い立ち夕食は終わりとした。異常な量の餅を食べたために、眠気に急に襲われ、そのまま就寝。色々な変化が起こった年だったなと回想する間もなかった。
2024-25 年末年始 伊豆半島の旅 - 2 6, May, 2025 #15

30日
朝4時半に起床予定だったが15分ほど寝坊した。予報通りだとベタ凪のはずなため、朝食は作らず行動食で済ませて出発することに。しかし、3ヶ月振りのカヤックということもあり、手際が悪く、朝食を抜いて時間短縮をしたにも関わらず、出発が7時前になってしまった。
漕ぎ出してから3時間半程は眠気に襲われ、海上でうたた寝をする度に大きなうねりがカヤックに当たり、「おー危ない、危ない」という感じで起こされながら漕いでいく。4時間もすると身体がパドリングに慣れてきて、以前のフォームを思い出し、快適に漕げるようになった。
伊豆稲取までは通常の巡航速度である時速6km程で進んだが、強烈な向かい風に遭い時速3kmまで落ち込み、予定していた目的地までは届かず、伊東から35km地点である河津海水浴場でキャンプをすることになった。
翌日は旅のハイライトの1つでもある石廊崎越えがあったが、風速が16mに達する予報のため停滞することにした。何かがおかしいなとこの時気づき、気象庁の天気図を確認したところ、冬型の西高東低の気圧配置がバッチリと決まっていた。だいぶ前に西伊豆コースタルカヤックスのホームページで「1-2月頃は冬型の西高東低の気圧配置が決まると猛烈な風が吹きます」という内容を読んだことを思い出し、自分の計画性の無さに呆れる。
2024-25 年末年始 伊豆半島の旅 - 1 6, May, 2025 #14
29日
荷物のパッキングが朝になっても終わっておらず、乗車予定だった正午頃の電車に乗り遅れる。
新橋駅で東海道線に乗ったものの途中から便意を感じ、小田原辺りでピークに達する。暗くなってきたこともあり、根府川辺りで途中下車しプラットフォームからお尻を突き出して排便しようかと逡巡したが、なんとか冷静になる。車窓から見える相模湾の雄大な景色を睨みつつ気を紛らわせ、熱海へと到着。
伊東線への乗り換え時間が8分間しかなかったが、お尻の安全性の確保を最優先とし、便所へと駆け込み事なきを得る。当然乗り換えには間に合わず、さらに30分遅れることに。大きな荷物を引きづりながら、出発地である伊東に着いたのは午後5時前だった。
日没は午後4:40分頃で、国道135号線の電灯を頼りに伊東オレンジビーチでカヤックとテントを組み立てる。焚き火をする気力など当然起こらず、近くにあった「伊豆っこラーメン」というお店でチャーシュー麺大盛りと餃子を食べテントに戻り就寝。
2024年の読書 / What I read in 2024 4, Jan, 2025 #13
2024年もあまり読書が捗らず、去年と同じような冊数になってしまった。一方で選書技術というか、面白いなと思う本は去年よりも選べるようになってきている。
洋書
1, F. Scott Fitzgerald, The Great Gatsby
2, Roald Dahl, The Witches
3, Roald Dahl, Matilda
4, J. D. Salinger, The Catcher in the Rye
5, Roald Dahl, Boy
6, Roald Dahl, Going Solo
7, Haruki Murakami, After Dark
8, Asako Yuzuki, Butter
9, C.S. Lewis, The Magician’s Nephew
10, C.S. Lewis, The Lion, the Witch and the Wardrobe 
11, C.S. Lewis, Prince Caspian
12, Robert Atkins, Artspoke
13, Yu Miri, The End of August
14, Haruki Murakami, Sputnik Sweetheart
15, Haruki Murakami, Kafka on the Shore
16, George Orwell, Nineteen Eighty Four

和書
1, エドワード・レルフ, 場所の現象学
2, 岸政彦, 梶谷懐編, 所有とは何か
3, 荒谷大輔, 資本主義に出口はあるか
4, 末永照和監修, 増補新装カラー版20世紀の美術 (2)
5, 角幡唯介, 書くことの不純
6, 柚木麻子, 伊藤くん A to E
7, 姫野カオルコ, 彼女は頭が悪いから
8, 三宅香帆, なぜ働いていると本が読めなくなるのか
9, 竹田青嗣, 中学生からの哲学「超」入門
10, ホンマタカシ, ホンマタカシの換骨奪胎
11, 川内有緒, 空をゆく巨人
12, 荒谷大輔, 贈与経済2.0
13, 今村夏子, こちらあみ子
14, 村上春樹, 街とその不確かな壁
15, 池田晶子, 14歳からの哲学
16, 川上未映子, 村上春樹. みみずくは黄昏に飛び立つ
17, 村上春樹, 風の歌を聴け (3)
18, 村上龍, 限りなく透明に近いブルー
19, 服部文祥, 北海道犬旅サバイバル
20, 石田衣良, 結婚はあなたのゴールではない
21, 柚木麻子, 私にふさわしいホテル
22, 近藤聡乃, 一年前の猫
23, Bゼミ, 現代美術演習I
24, マルティン・ハイデッガー, 芸術作品の根源
25, 塩田千春, 心が形になるとき
26, 西研, 哲学のモノサシ
27, エドワード・W・サイード, 知識人とは何か
28, 平野啓一郎, マチネの終わりに
29, 西崎文子・武内進一編著, 紛争・対立・暴力
30, イタロ・カルヴィーノ, まっぷたつの子爵
31, 平野啓一郎, 決壊上
32, 平野啓一郎, 決壊下
33, 平野啓一郎, ドーン
34, 村上春樹, 猫を棄てる 父親について語るとき
35, 村上春樹, 中国行きのスロウ・ボート
36, 村上春樹, 安西水丸, 村上朝日堂
37, 角幡唯介, 地図なき山
38, 竹田青嗣, プラトン入門
39, 服部小雪, はっとりさんちの野生な毎日

漫画
山口つばさ, ブルーピリオド 15
東村アキコ, 東京タラレバ娘 1 - 9
東村アキコ, 主に泣いてます 1 - 10
東村アキコ, 即席ビジンのつくりかた
田島列島, 水は海に向かって流れる 1 - 3
田島列島, 短編集 ごあいさつ
田島列島, 子どもはわかってあげない 1, 2
田島列島, みちかとまり1
2023年の読書 / What I read in 2023 16, Nov, 2024 #12

2022年、いやもっと前から何を読んだのかをリスト化していたのだけれど、なんとなく消してしまっていた。2022年のリストはこちらに上げたが、後から恥ずかしくなって消去してしまい、もう何を読んだのかも覚えていない。今年(去年)からのは残しておこうと考えているので備忘録として書いておく。
1, 角幡唯介, 極夜行前(2)
2, 畠山直哉, 話す写真 目に見えないものに向かって
3, 森山直人編, メディア社会における「芸術」の行方
4, 森山直人編, 20世紀の文学・舞台芸術
5, 林洋子編, アジア・アフリカと新しい潮流
6, Haruki Murakami, 1Q84
7, 布施英利, 現代アートはすごい
8, 畠山直哉, 大竹昭子, 出来事と写真(2)
9, Haruki Murakami, Novelist as a Vocation
10, 畠山直哉, 大竹昭子, 見えているパチリ
11, 筧菜々子, めくるめく現代アート
12, 國府功一郎, 暇と退屈の倫理学
13, 綿矢りさ, 生のみ生のままで上
14, 綿矢りさ, 生のみ生のままで下
15, 千葉雅也, 現代思想入門
16, さくらももこ, ももこの話
17, Grayson Perry, Playing to the Gallery
18, 岸正彦, 断片的なものの社会学
19, Min Jin Lee, Pachinko
20, Haruki Murakami, What I talk about when I talk about running 
21, Haruki Murakami, Blind Willow, Sleeping Woman 
22, Grayson Perry, The Decent of Man
23, Roald Dahl, James and the Giant Peach
24, J.K. Rowling, Harry Potter and the Prisoner of Azkaban
25, Jimmy O Yang, How to American
26, J.K. Rowling, Harry Potter and the Goblet of Fire 
27, Roald Dahl, Charlie and the Chocolate Factory
28, J.K. Rowling, Harry Potter and the Order of the Phoenix
29, J.K. Rowling, Harry Potter and the Half-blood Prince
30, J.K. Rowling, Harry Potter and the Deathly Hallows
31, 松井みどり,『アート : "芸術"が終わった後の"アート"』
32, 李琴峰, 透明な膜を隔てながら
33, 末永照和監修, 増補新装カラー版20世紀の美術
34, 井戸川射子, この世の喜びよ
35, 白水社編集部編, 『その他の外国語文学』の翻訳者
36, Kazuo Ishiguro, The Remains of the Day
37, Haruki Murakami, First Person Singular 
38, David Hockney, Martin Gayford, A History of Pictures for children
39, J.K. Rowling, Harry Potter and the Cursed Child
40, Roald Dahl, Charlie and the Great Glass Elevator
41, Haruki Murakami, Norwegian Wood
42, 竹田青嗣, 哲学ってなんだ -自分と社会を知る
43, 西研, 集中講義これが哲学!いまを生き抜く思考のレッスン
44, Haruki Murakami, Hard-boiled Wonderland and the End of the World
45, ちくま哲学の森, 生きる技術 
46, 栗原康, 村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝
47, サマセット・モーム, 月と六ペンス
48, Haruki Murakami, Dance Dance Dance
49, Rin Usami, Idol, Burning
50, Roald Dahl, The Twits
51, Haruki Murakami, The Wind-Up Bird Chronicle
52, Haruki Murakami, The Elephant Vanishes
53, カロル・タロン=ユゴン, 美学への手引き
54, Haruki Murakami, Colorless Tsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage
55, George Orwell, Animal Farm

漫画
1, 近藤聡乃, ニューヨークで考え中
2, 近藤聡乃, A子さんの恋人
色々と展示を見て、作品のテーマにおける普遍性について。23, Oct, 2024 #11
多分だけど、あの時はタイトルの付け方とか表象の仕方がしょぼかったから、テーマまで陳腐に見えていたんだと思う。
普遍的じゃないテーマってなんだって逆に思うけど、最近では。
自分が表象しようとしているものを突き詰めて考えていくと、何処かで普遍的なテーマ性を帯びてくると思うんだよね。その突き詰め方が足りないと陳腐になるっているか、鑑賞者との共有ができなくなるんじゃないかな。(なぜなら)そこには普遍性がないから。(以上、パートナーとのインスタグラム上での会話。 15, Oct, 2024)
かくて哲学的に思考するとは、思考が普遍的な対象にたちむかうこと、普遍的なものを対象とし、対象を普遍的なものとして明確化することを意味します。感覚的に意識される個々の自然物を、思考は普遍的なものとして、思想として、客観的な思想として(略)明確化します。(以上、ヘーゲル哲学史講義からの抜粋『竹田青嗣, プラトン入門, ちくま学芸文庫』から。)
Untitled#1 12, Apr, 2024 #10
 Space Hacoで同時通訳(ボランティア)の仕事をしてきた。ロンドンに在住しているSotirisさんとAniaさんの『庭 灰』という展示だ。ひょんなきっかけから同時通訳を初めて引き受けてしまったのだけれど、アーティストの2人と鑑賞者には喜んで頂けたようで嬉しかった(至らない点が多数あったのだけれど)。良い機会をくださったAnnさんには多謝。
 その後は今日から美学校で始まった、『アートに何ができるのか』という講座の修了展を観に行った。夜の7時過ぎから10時過ぎまで、在廊していたアーティスト達と話し込んでいた(殆どはあさひさんと)。中央の低いテーブルにはうらさんが展示をしており、政治にまつわる話しなどを中心に展開されていた。政治について、よくよく考えてみると「政治」という言葉自体が曖昧模糊としたものだということに気がつく。単語の語源とかを調べることが好きなのだけれど、政治という単語は英語だとpoliticsで、名詞のpoliticから16世紀に派生したそうだ。politicという単語は現在では名詞では「支配関係」という意味で、形容詞だと「賢明な、思慮分別のある、便宜的な、妥当な、ずるい、抜け目のない」という、相反するような意味を抱える複雑な単語だということが分かる。「ずるい」という意味が無ければ、信頼の置けない政治家に対して、「あなたはpoliticianと名乗る資格はないのでは」と問うことができるのだけれど。
 もう今日は頭が疲れたからこの辺で。
 うらさんが「日記はおすすめ」と言ってくれたから書きました。続くかは分からない。気が向いた時だけでもいいかもしれない。勝手に名前を出してすみません。おやすみなさい。
 風邪の治りかけで色々な人に会ってしまった。もし風邪を引いてしまったのなら、それは多分私が原因です。すみません。
積丹半島カヤック紀行3 6, Feb, 2024, #9
 昨日はあまり動いていないのだが、腹が減り、寝袋から這い出てきて辛ラーメンを食べた。辛ラーメンはノンフライで一食につき500キロカロリーという高カロリーで旅の食事にはもってこいである。前回の瀬戸内海の旅では辛ラーメンの普通の味を食べ続けていたのだが、朝イチで辛いものを食べるのは意外としんどく、排便物も真っ赤になり、不健康に感じていてた。加えて、辛ラーメンを朝晩2回テントで食べることを2週間程度続けていると、テント自体が辛ラーメンの匂いを発するようになり、テントに居る時間も不愉快になる。そのため、今回はキムチ味を持っていくことにした。キムチと聞くと腸内環境に良さそうで、野菜も摂れて一石二鳥みたいだが、実際にはキムチ「味」のため、健康には良くない。とは言いつつもキムチ味に変更したおかげで、マイルドな辛さになり、身体の調子も良くなった気がしていた。
 2日目はこの旅のハイライトとも言える神威岬越えがあった。海にカヤックを浮かべて出発し、右手に積丹半島の奇岩を眺めながら神威岬に向かって漕いでいく。途中にある西の河原では羆の出没情報が何度もあり、覗いてみたのだが1頭もいなかった。
 北西風が4-5m吹いており、さらに向かい風で神威岬周辺に到達するまで予定よりも時間が掛かってしまった。神威岬を見上げると先端に灯台には大量の観光客が押し寄せている。彼らからは神威岩がどのように見えているのだろうか。神威岬から神威岩に続く場所には暗礁が続いていた。そのうえ風もあり、波が立っていたため最短距離での通過はできないと考え、神威岩を回り込むことにした。暗礁を避けながら神威岩まで漕いでいると風向きと風速が変化していることに気が付く。岬から北側では南側とは打って変わって風が強くなっている。神威岩を超えたところから見える大きな暗礁にはうねりがぶつかり、大きな波ができていた。そのまま少し漕いでいたのだが、横波が強く、このままだとシーカヤックがひっくり返りそうになったため途中で引き返すことにした。シーカヤックは前からの波には直角にバウを入れいていくことで、波を切ることができるのだが、横波にはとても弱い。そのため、横波を受けた反対方向の水面にパドルを当ててバランスを取ったりする。1度や2度の波であるのなら良いのだが、横波が短いスパンで何度も繰り返している状態では体力や精神力の消耗が激しく、あまり同じ場所にはいたくない。波にバウを直角に入れて漕いでいき、遠回りして回避することもできただろうが、初めての日本海で体力を消耗させたくなかったため戻ることにしたのだ。
 神威岬の南側に周りこんだところで、ひっくり返らなかったことに安堵した。ひっくり返っていたとしても、キャンプ道具などを満載しているシーカヤックをひっくり返し直すことは、難しかったに違いない。
 そのまま近くの神岬漁港まで漕いでいき、この日は体勢を立て直すことにした。カヤックを漕いでいる時に気が付いていたのだが、バウが少し右側に曲がっていた。やはり昨日に組み立てた際の骨組みに何か問題があったようだ。何度もスイープを繰り返していた原因もここにあった。漁港のスロープを拝借し、カヤックを組み立て直す。リブチャネルという関節の役割をするパーツを付ける箇所を間違えていた。そのため、カヤックの骨組みが捻じれており、この捻じれがカヤックのスキンにも伝わり先端のバウが曲がっていたのである。8ヶ月ものブランクはこんなところにも現れており、カヤックの船布体に変な癖が出ていないことを願いながら組み立て直した。
 この日は早々に上陸したため、たっぷりと時間があった。そのため陸路でのショートカットも考えたが、この度の一番の醍醐味とも言える場所を無視することに躊躇いを感じ、明日まで待つことにした。幸いなことに翌日の神威岬の北側の風速は2,3m程と予報されており、何も問題なく漕ぎ進められることが分かった。ついでにこの日の風速も調べたところ、神威岬の北側では8m以上も出ており、弱まることがないことを知った。シーカヤックでの旅は移動範囲が広範なこともあり、のんびりと過ごしてしまうのだ。
 その場に居座っていても面白くもないため、国道を歩いて神威岬まで行ってみることにした。走っていく車を横目にコンクリートの坂道を登っていくと、開けた場所には何百台も停まれる駐車場が広がっていた。観光バスまで乗り入れている神威岬は完全に観光地化され、私が海上で味わっていたような緊張感は全くなく、その牧歌的な光景とのギャップに辟易してしまうほどだった。かつては信仰までされいたが、観光地化により没場所化した神威岬はどこにでもあるようなただの「見晴らしの良い場所」になっていた。先に進む気力もなく、日没という時間の制限もあったため、私は15分ほど駐車場に滞在し、カヤックを置いている漁港へと戻っていった。
積丹半島カヤック紀行2 1, Feb, 2024, #8
 明る日は急いでもいなかったため、泊まらせていただいている宿で朝食を頂いてから、旅の準備に取り掛かることにした。最終日の朝だからか、豪勢に雲丹とイクラなどが出てきた。昨日あれだけの雲丹を食べた私は、正直なところ雲丹はもういらないと思っていたのだが、一口食べるとやはり美味しく全て食べてしまった。
 朝食を食べ終えて、宿の前でシーカヤックを組み立てる。約8ヶ月ぶりに組み立てたため、どこかに間違いがないか入念に確認した。確認を終えても、何故か外れてしまうパーツが出てきてしまう。何度も組み立てているはずなのだが、おかしいと思いつつ、説明書を見ながら再度組み立て直しても、しっかりと出来上がらない。説明書を見て、直すということを繰り返していると、リブチャネルという樹脂でできた接合部分のパーツが割れてしまい、今度は組み立てること自体が困難になってしまった。初日から「これじゃあな」と漕ぐことが面倒になってきてしまったのだが、積丹半島まで来たのだからと自分に言い聞かせて、強力なリペアテームを何重にもして割れたパーツの代わりとすることにした。シーカヤックの骨組みはいつ見ても鯨のような哺乳類の美しい骨格のようで美しい。人間は何かを作るときに自然を模倣するというが、シーカヤックにもそのことが生きているなと実感する瞬間である。
 船布体を骨格の上から被せて、座席の位置などを調整し、荷物を詰め込み近くの前浜海水浴場まで運んで行った。夏休みだからか、前浜ではキャンプをしにきた家族が大勢いた。その中で5.3mもあるシーカヤックを運んでいる私はかなり浮いていた。ジロジロと見られているのも嫌なので、さっさと最終準備を済ませて、海にカヤックを浮かばせて出発した。
 久しぶりなことと、初日から長い距離を漕ごう(漕げる)なんて思っていたなかったため、20km程度漕げればいいなと思っていた。しかし8ヶ月ものブランクは非常に重く、私の身体は思うように動かなかった。自分の体力や筋力の無さに絶望しつつ、神恵内村から9km漕いだ地点にある珊内(さんない)という地域で一泊することにした。珊内には「珊内ぬくもり温泉」という村営の日帰り入浴施設があり、300円だか500円程度で誰でも入浴することができる。本来であれば、温泉という施設は最終日に長旅で疲れた身体を癒すために入るべきなのだが、今回は『ゆるたび』だし、自分を甘やかそうとのことで入浴することにした。浴場からは「積丹ブルー」と形容される日本海が見える立派な温泉だった。
積丹半島カヤック紀行1 19, Nov, 2023, #7
 以前から行こうと思っていたが、機会がなく行けていない場所というものがある。北海道もそのうちの一つだった。
 北海道に惹かれていた理由は多々あるが、その一つは知床半島でカヤックを漕ぎたかったのである。だけれども、知床半島とは縁がなく、あるいは僕が予定を立てないで漫然と生きているような人間だからか未だに一度も訪れたことがない。そして「あー、いつかは北海道に行きたいなー」と思っているうちに3年ほど過ぎてしまった。
 しかし、訳あって今夏8月に積丹半島に1週間弱滞在することになった。毎度の事ながら家を出る直前まで準備を全くしていないことに加えて、今回はアルバイト先への連絡も遅れてしまった。平謝りのメールを入れ、他の用事を全てキャンセルし成田空港へと向かった。
 近年の温暖化からか、夏の北海道は湿度こそ東京ほどないにせよ、連日の気温は30度前後に達していた。新千歳空港から電車とバスを乗り継ぎ、4時間ほどで目的地である神恵内村へと到着した。初めの3日間で用事を済ませ、4日目からシーカヤックで積丹半島を周るという計画だ。
 神恵内村は雲丹漁が盛んでシーズン中は毎朝漁に出て、雲丹を取ってきて昼過ぎあるいは3時ごろまで雲丹剥きを行うことで生計を立てている漁師とその家族が多く住んでいる。僕は滞在3日目に漁港で雲丹の下処理の写真を撮らせてもらうことになった。
 雲丹の下処理は大体次のような工程だ。まず雲丹に専用の工具のようなもので殻を割る。次に雲丹をザルに入れ傷まないように氷水に浸けながら内臓などの食べない部分を手作業で丁寧に取る。その後、真水あるいは食塩水で残った細かな異物を洗い流し、水を切り数百グラムごとにジプロックに入れ卸売りされる。今年の卸価格はキロ1800円だと言っていた。僕たちが普段見るような綺麗に並べられて売られているものにすることで、雲丹の値段は跳ね上がるという。小樽では中国人が20000円もする雲丹丼を食べているという話まであった。帰りに寄った新千歳国際空港での雲丹の価格は100グラム4000円程で売られていたと記憶している。
 雲丹の下処理の撮影をさせてもらい帰り際、ありがたいことに剥いたばかりの雲丹を300グラム程頂いた。この日は神恵内村滞在最終日だったため、夕飯は塩水で洗った雲丹を温かいご飯に乗せただけの雲丹丼で締めくくることにした。
駿河湾横断 4, August, 2023, #6
 シーカヤックを始めた当初から島渡りをすることには憧れていた。しかし、初心者にとって島渡りは困難極まるため、段階を踏んで自身が持つ地図を広げていくことが肝要だ。そのため、手っ取り早く島渡り気分を味わうには湾横断がいいと判断し、ぼくは昨年の12月に駿河湾を横断してきた。湾は3方が陸に囲まれているとはいえ、退路が絶たれる場合が多い。駿河湾も横断する途中には島が一切無いため、カヤックから降りてゆっくりと休憩することはできない。大袈裟に言えば、湾横断は漕ぎ続けなければジ・エンドなのである。
 出発地点である片浜海岸には東海道線で向かった。毎度のことながら異常に重いシーカヤックとその道具を公共交通機関を使って運んでいる時は、何でこんなことをしているんだろうと自問自答している。もっと言ってしまうと、横断当日の起床直後はこのままベッドの上で永眠できたらいいのにという気分になっていた。ぼくは身体を酷使する旅が始まるまでは、基本的にネガティブな感情になっている。そういう気分になると理解していても、フラフラと何処かへと出掛けてしまうのは性格の問題だから直しようがないのだろう。
 片浜海岸から清水方面へとカヤックを漕いでも横断したことにはならないため、1日目は伊豆半島の大瀬崎まで行くことにした。南風が強く海況が少々悪かったが10km強の距離のため出艇した。ぼくが使用しているフォールディングカヤックはリジッドカヤックと異なり柔構造のため、風の影響をもろに受ける。ひどい時になると押し戻されているのではないかと思うぐらい、漕いでも漕いでも進まない状況が生まれたりもする。大瀬崎までは2時間ぐらいで行けるだろうと思っていたが、3時間半程掛かってしまった。さらにあろうことか、カヤックカートを海上で紛失してしまったのだ。モンベルで購入した24000円もするカヤックカートは1ヶ月程前に手に入れたばかりだった。キャンプ道具等を入れているカヤックは海上では安定しており快適であるが、陸上に上げた途端に死んだマグロ状態となる。そのため、カヤックを陸上で運搬するためにはカヤックカートが必須なのである。カヤックカートなしで上陸する辛さよりも、金額面での精神的ダメージが大きく、海上で後ろを振り返った時の喪失感といったら計り知れないものがあった。長年交際してきた恋人と結婚式の日取りまで決めて周知までしたのだが、相手がマリッジブルーになり突然別れを告げられた時の気分と同じようなものだと思う。向かい風に加えて雨も降っており、婚約者に振られるというダブルパンチを喰らいながらも、出発点である片浜海岸よりは大瀬崎の方が近いため、ぼくは大瀬崎に向かってカヤックを漕ぎ続けた。大瀬崎は岩場であったためなるべく平坦な場所を見つけ、テントを張りその日はすぐに就寝した。
 翌る日は昨日とは打って変わって快晴であった。天気は人の気分を左右するが、ぼくもご多分に漏れず俄然とやる気が出てきて対岸である清水を目指してカヤックを漕ぎ始めた。漕いでいる途中は何もすることが無いため、右手に見える富士山を眺めながらいつか厳冬期に単独行をしたいなーなどと呑気に考えていた。中間地点までは向かい風であまり進まなかったが、その後は追い風となり背中でうまく風を受け止めながら速度を上げて5時間程で対岸の興津に到達した。距離にして23kmといったところか。
 駿河湾を横断したという充足感も束の間、またこの重い荷物を引き摺りながら帰らなければいけないのかというネガティブな気分になったまま、ぼくは帰路についた。
瀬戸内海横断0 431km 25, June, 2023, #5
 2022年3月頃からシーカヤックを始めた。シーカヤックを始めるのは登山を始めるのとは訳が違って、格段に最初の一歩を踏み出すのが難しいと思う。金銭、運搬そしてカヤック保管しておく場所の問題が立ちはだかるのである。
 大学の山岳部でよく言われている人生の三大北壁(就職、結婚そして出産)の問題よりも深刻ではないのだが、若者がシーカヤックを始めるのはそれなりの労力を覚悟しなければならないと思う。
 シーカヤックは主にリジッド式とフォールディング式の2種類が存在する。どちらもその名の通り、折り畳めるかそうでないかの違いである。他に違いがあるとすれば、リジッド式は頑丈なので少々荒く使用しても大丈夫なところ、それと海況があまり良くない状態でもフォールディング式よりは信頼できる点だろう。リジッドカヤックは3分割式や5分割式が販売されているものの、運搬性能はフォールディングカヤックに軍配が上がると言えるだろう。なんせ、付属のタイヤを使えば、スーツケースのように舗装されている道の上ではコロコロと転がしながら公共交通機関を使用して移動できるからだ。ぼくは将来どこで使用するかも分からない上に、保管する場所のことを考えフォールディングカヤックをモンベルで購入した。
 ぼくが購入したカヤックは最大サイズのもので人間を含めて200kgまで物を積載可能であるモデルだ。これが意味することはカヤックのサイズが大きいため、海上での安定性の向上と長期間の旅が可能となることである。このカヤックを使用してぼくは2022年12月25日から2023年1月9日まで瀬戸内海横断の旅をしてきた。
 今回はちょっとした長旅なので出発直前まで慌てふためいていた。持っていく装備をリストアップしていたものの、最後の最後まで準備をし続けていた。前もって準備を完了させておいた方が安心するという概念を持っていないぼくは、まるで夏休みの最終日まで宿題に手をつけていない小学生のようなだった。大抵の場合、悪化する前に自分を律して治すと思うのだが、過去のぼくはそういう努力まで怠っていたようで、根っからの愚鈍な性格は今の今に至るまで変わらなかった。最近ではそういう自分を許すことにして、人よりも時間を掛ければ解決するという考えに至った。
 そんなこんなで、12月24日と25日は大学の授業が連続で入っていたのだが直前でキャンセルした。ぼくは通信制の大学に籍を置いているため、登校して単位を取得するような授業の際はその都度授業料を払うことになっている。その2日間の授業料は16000円かつ、直前のキャンセルであったため1円足りとも返金されることはなかった。これまでに鈍間な性格が原因で16000円も損失を被ったことは無かったため、精神的なダメージはかなり大きかったことを覚えている。16000円を大学に寄附した甲斐があり、旅の準備は何とか終えられた。
 事前にシーカヤック本体はヤマト運輸で出発地である山口県萩市へと送り、他の荷物を大量に抱えながら山手線に乗って東京駅へと向かった。八重洲口の高速バス乗り場はクリスマスでカップルが多く、さらに年の瀬のため帰省したりと浮き足立つ人々を横目にぼくは萩行きのバスを待っていた。バスが到着すると運転手さん達は完全に重量超過かつサイズオーバーであるバッグに対して眉間に皺を寄せることもなく、バスの脇腹についている荷物入れに詰めてくれた。大量の荷物を抱えて一人でいると、気さくな運転手さん達は何をしに行くのかと話しかけてくれる。ぼくはこのちょっとした会話が好きで、独りであることもあってか少し励まされている気もする。
 バスは八重洲口を出発し、このバスは何処そこへと寄ります等のアナウンスが流れていた。直前まで準備をしていたぼくは疲れもあってか、うたた寝を繰り返しつつ、いつの間にか眠ってしまっていた。
 萩には午前10時頃に到着した。高速バスでは停留所に着く数十分前にもうじき到着しますというアナウンスが流れ、それと共に起きることになる。高速バスのカーテンはボタンでいつもかっちりと留められている。そのボタンを何個か外してカーテンの隙間から朝の景色を眺めた。「寝ている間に違う場所に到着している」という不思議な感覚にはいつもワクワクさせられる。旅が始まる合図なのだろう。
 運転手さんに礼を言い、バスを降りてヤマト運輸の支店まで歩いて行った。無事にカヤックを受け取り、出艇場所と決めていた近くの河添河川公園まで行き、明日への準備をしていると地元の人が話しかけてきた。Y田さんはフォールディングカヤックを見たのが初めてだと言い、組み立てが終わるまで近くにいながら話したり、写真を撮ったりしていた。やっとのことで組み立て終わるとY田さんは餞別だと言ってチョコレートケーキと缶コーヒーをセブンイレブンで買って来てくれた。すぐにチョコレートケーキを食べれば良かったものの、何故かY田さんの目の前で食べるのことが何故か気恥ずかしくなり、Y田さんが去ってから食べ始めた。暖かい日だったからか、セブンイレブンのチョコレートケーキは少し溶けていた。
 雲一つない星空とiphoneの天気予報アプリ(巷では当てにならないと噂の)の降水確率を信じて、テントを張らずに芝生の上にマットと寝袋を敷いて横たわった。萩を流れる橋本川の向こうには、瀬戸内海へと続く日本海が広がっている。
 いよいよ、たった一人の瀬戸内海横断がはじまる。
「人それぞれ」という言葉の優しさの裏に 24, February, 2023, #4
 数年前から友人たちと飲み会で集まる度に耳にする言葉がある。それはタイトルに書いた通り、「人それぞれ」という言葉だ。友人たちと会っていなかった時に起こったそれぞれの出来事について話し合っていると、誰からともなく、「人それぞれだから」という言葉で会話を締め括られる場面に遭遇してきた。何か会話に煮詰まってしまった時にこの言葉は用いられるのだが、僕は煮詰まった先にある地点に到達できていないような気がして、言葉にできない感情をずっと抱いてきた。
 「人それぞれ」という言葉がいつ頃から頻繁に使われるようになったかは詳しくないのだが、多様性を認めようとする社会を構成しようとなってから、よく耳にするようになったのではないかと思う。様々な背景を持った個人が集まってできた社会を構成し、円滑に物事が進んでいくようにするためには、人それぞれの違い=多様性を認めなければ、その社会に適合し生きていくことが困難になる。集団で生活することが当たり前となった社会では、誰しもがそのような落伍者にはなりたくないという心理から、「多様性を認めよう」というスローガンを高々と掲げ、生活していくことになる。そこで「人それぞれ」という言葉に利便性を見出した人たちが、頻繁にその言葉を使うようになったのではないかと推察する。
 この「人それぞれ」という言葉は一見して、多様性を認め合うかのように振る舞っている。しかし、この言葉がどのような働きをするかと言えば、前述したように会話を止める役割を担っていることが挙げられる。つまり、その会話にそれ以上の考察をもたらすことを妨げているのである。今流行りの言葉を使えば「思考停止」ということになるだろう。もっと突っ込んでしまうと、「人それぞれ」という言葉を使うことによって、発話者自身にとって快適ではない属性の人々を無視しているとも言える。つまり、多様性を認め合っていないのである。無視することと、認めることは全くの別物である。無視することはその存在を不在のものとし、認めることはその存在を実在のものとする。
 なぜこのような言葉を意識的であれ、無意識的であれ発してしまう理由は、対立を防ぎたいという心理が働いているのだと思う。飲み会の場というのは一時的ではあるが、小規模の社会集団であり、基本的には参加する皆が楽しく会話をしながら食べ物を食べたり、酒を飲んだりして気持ちが良くなって帰路に着きたいのである。
 しかし、往々にしてそのような表面的とも言える会話は、人々の関係性を決して深くすることはない(このような発言をしてしまうと、「お前はオレたちとの関係性が希薄だと言いたいのか」と友人に詰問されてしまいそうだが、決してそうではなく、寧ろ逆を求めているのである)。だからこそ、デジタルネイティブと言われる世代は、現実社会における人との関係性を構築することに悩み、ソーシャルメディア上での承認欲求が肥大してしまうのかもしれない。(養老孟司さんは人口過多な都市社会における疎外感が承認欲求を生み出し、田舎に行けば人口の過疎化が進んでいるため、自然と誰かに注目が集まり承認欲求を意識的に満たすなんてことはなくなると指摘していた。)数年前にアドラーの『嫌われる勇気』という書籍が日本においてもベストセラーとなっていたが、その後の日本社会の蓋を開けてみると、この書籍は多少の経済を循環させる役割を果たしただけと言わざるを得ないのではないだろうか。まあ、多様性を認め合おうと躍起になっている若い読者層が居ないだけなのかもしれないが。
 つまり、それだけに多様性を認め合うということは難しいのである。しかし、多様性を認め合う為には言論における多少の対立を恐れず、乗り超えていくことが必要とされているのも事実であり、僕たちのようなこれからの社会を形成していく世代は、一歩踏み込んで誰かとの対話を重ねるべきだと思う。だからこそ、「人それぞれ」なんていう軟弱かつ、会話という知的営為が生み出す、時間をかけて煮詰めた先にある「美味しい出汁」のようなものを捨ててしまう言葉には注意を払わなければならないのである。
2022年の読書 / What I read in 2022 5, February, 2023, #3
 2022年はあまり読書が捗らなかった年であった。理由は色々とあるけれど、作品制作をしたり、シーカヤックに割く時間が増えたことが理由だと思う。浪人生の頃から毎年大体100冊程度は読んでいたのに悲しい。というのもぼくは極端かもしれないけれど、本を読まない限り人生は面白くならないという考え方をしていて、読む本の冊数が減るということは、それだけ新しい自分に出会える機会を失っていることになるからだ。もちろん旅をしたりすることで生まれる擦過のようなものから、新しい考えが芽を出したりすることもある。だけれど、それらの旅の動機も結局は本を読むことで生まれていることが99%と言わざるを得ない。畢竟、本を読まなければ、生命体としての内燃機関が働かずに「死ぬ」みたいなことに繋がりかねないのである。2023年は既に去年よりも本を読めないだろうなと思っているため、ぼくにとっての「死期」みたいなものが近づいているのかもしれない。その死期を少しでも遠ざけるために、三畳ばかりの知の沃野を少しでも耕すことが今年の抱負の一つである。
 去年は山田詠美さんの作品を再読というか、読んだことのない作品も含めて読み始めた。浪人生の時にタイトルに惹かれて『ぼくは勉強ができない』を読んだことがきっかけとなり数冊読んでいた覚えがある。『ぼくは勉強ができない』を選んだ理由はそのままで「ぼくは勉強ができなかった」からである。今も勉強なんてできずに「優秀」からは程遠いような人生を歩んでいることをあの時のぼくが知ったら卒倒するに違いない。それでも秀美くんのように、自分なりに人生の慈しみ方は見つけられたから良かったはずである。
 村田沙耶香さんの作品も好きすぎて英語版も出版されているものは全て読破してしまった。特に名詞が面白い。村田さんの作品は徹底的に「常識」を疑うことが描かれているのだが、それ故に普通では食べないような物も食するシーンがあったりする。そのようなシーンでは全く知らない英単語のオンパレード状態になるのだが、それらの単語を英辞郎で逐一調べるのが至福なのである。だけれど、調べた英単語が日の目を見ることは限りなく低いことは言うまでもない。
 あとは写真を少しやっているので畠山直哉さんの考え方を身体に染み込ませたいというか、畠山直哉になりたいと思ってしまった年でもあった。彼の写真への思考を吸収するために本だけではなく、Naoya HatakeyamaとYoutubeの検索欄に入れて対談等の動画を食事中にも見ていたほどである。自分が取り組んでいる、あるいは取り組んだ作品をあれだけ理路整然と説明したり、世界との関わり方を臆することなく全て曝け出している姿勢は尊敬の念を抱かざるを得ない。さらに、英語を話せたり、フランスでのトークショーでは突然フランス語を喋り出したりとチャーミングな一面もあり、不覚にも恋心を抱いてしまった。それに着ている洋服だってお洒落なのである。話が脱線したが、彼の考えを知れば知るほど、やはり写真は世界を新たな角度から照射する機械なのだなと思うのである。そんな「写真」と出会えたぼくはやはり運が良かったとも言えるのだろう。
忘れるために撮る 2, February, 2023, #2
 先日、ぼくの友人が開催していたワークショップに参加した。ワークショップの目的は一番忘れそうなものを撮影しキーホルダーにすること、そして何故ぼくたちが写真を撮るかということについて考察し、議論することであった。
 「忘れるために撮る」ということは通常であれば違和感を覚える表現で、「忘れないために撮る」と言った方が大勢の人たちにとってしっくりくるのではないだろうか。スマートフォンが普及し誰もが写真を撮影する時代において、メモ代わりに手持ちのスマホで何かを撮影するなんてことは誰でも日常的に行なっているはずだ。「メモ代わり」に撮影するということは「忘れないために撮る」という行為であり、「忘れるために撮る」という行為とは真逆である。しかし、ぼくたちは「忘れないために撮る」と同時に「忘れるために撮る」という行為を行なっているのではないだろうか。
 何か覚えておかなければならないことがあると、ぼくたちは忘れないために努力をする。頭の中でその物事を反芻したりすることが最も手っ取り早い努力だろう。だけれど、その努力を続け、覚え続けることは大変な労力がいる。だからぼくたちはメモ書きを残したり、スマホで写真を撮影したりと外部の物に頼る。そうでもしない限り覚えておかなければならないことが頭の中で堆積し、次から次へと変化する日常に追いつけなくなるからだ。ここでは流れていく日常で起こる出来事を「忘れないために撮る」ことと「忘れるために撮る」ということが同時に行われている。
 ワークショップでは30分ほどの時間を与えられて、参加者それぞれが「忘れそうなもの」を撮影してきた。最初は30分で「忘れそうなもの」を撮るのは難しいぞと思い、会場となっていたビルを出て周辺の道路を歩き回った。昼間の六本木には食べ物のゴミや吐瀉物が道路上に点在しており、それらが目に入る度に立ち止まり、iphoneの画面をタップしてシャッターを切っていた。目線を下に向けて歩き続けるのも大変なもので、時々、顔を上げては電柱に貼ってあるステッカーなども撮影していた。
 30分が経ち、会場へと戻り撮影した写真をプリントしてキーホルダーに挟み込むという作業を行なった。その後それぞれの参加者が自分の撮ってきた写真を入れたキーホルダーを見せ合いながら、何故それが忘れそうなものなのかという議論を行なった。ぼくが使用した写真は電柱に標識管理番号が書かれた紙が透明なテープで貼られた上に、緑色の丸いシールが隅に貼られているというものであった。標識管理番号が書かれた紙が濡れないように全面をテープで覆いながら電柱に貼り付けるということまでは理解できるが、何故その上からわざわざ緑色の丸いシールを隅に貼っているのかが理解できなかったのだ。それに加えて、反対側の隅には黄色の丸いシールが貼られていたことも付け加えておきたい。普段であればこのようなどうでもいいことをぼくの数キロバイト程度しかない貴重な脳内RAMを使用して、一時保存し、再出力して考える、なんてことをしないのだが、今回は積極的に何故その被写体が忘れそうなのかを考えるということが主題のワークショップであるため、何故それが忘れそうに見えたのかや、その緑色のシール自体の存在意義についてを真剣に考えた。「緑色でなくて、赤などの派手な色だったらどうか」、「なんで、わざわざ丸いシールを貼ったのか」、「何かの目印なのか」、「なんで左右で色が違うのか」、「なんで緑色なのか」、「なんで下側のみに貼ってあって、上側には貼っていないのか」などである。こうして考えたことを言葉にして羅列してみたが、実にくだらないことに頭を使っているなと思う。
 当然のことだが、ぼくを含めた参加者の誰も標識管理番号の緑色のシールについての存在意義をこれまでの人生において考えたことなど皆無であるからして、誰も正解が分からなかった。加えて、ぼくが何故その緑色のシールは忘れるなと思ったのかも、その場では全くもって分からずじまいであった。
 この実にくだらない文章を書きながら、当日のぼくがなぜ「電柱に標識管理番号が書かれた紙が透明なテープで貼られた上に、緑色の丸いシールが隅に貼られている」ことを忘れそうだなと思った理由は、ぼくの日常生活において、そのようなものが視界に入らなくとも、生きていけるからで、さらに言うならば、ぼくの人生において何も有益性をもたらさないからである。
 そのため、何も有益性をもたらさない存在である緑色の丸いシールの存在を脳内メモリから消して、供養するためにぼくはその写真を撮影したのである。ぼくが「緑色の丸いシール」を被写体として発見して、写真に撮るまでの心理描写は以下のようになるだろう。
 「なんで、透明なテープでラミネート加工のように標識管理番号の紙が電柱に貼られた上から、わざわざ緑色の丸いシールを隅に貼っているのだろうか。あー、どうでもいいことに身体が反応してしまった。それにどうでもいいことに頭を使ってしまっている。こんなどうでもいいことは今すぐに忘れたい。そうだ、忘れるためには写真を撮ればいいのだ。外部の機器にこの存在があったという事実をインプットすれば、ぼくの頭はこの緑色の丸いシールについて考えるという呪縛から解き放たれるに違いない。南無阿弥陀仏(タップ)。」という感じになるだろうか。
 友人のワークショップも終わり、折角作ったキーホルダーをぼくはその日からリュックの肩部分にあるDリングに付けている。このリュックはほぼ毎日使用しているため、ほぼ毎日ぼくはこのキーホルダーを目にすることになる。つまり、ぼくはワークショップが終わってから1ヶ月以上も経過しているにも関わらず、緑色の丸いシールについて考えるという呪縛から解き放たれていないのである。キーホルダーを何処かに仕舞ったり、捨てたりすれば忘れるだろうと考えもしたが、肩部分に鎮座するキーホルダーは何故か、「販売当初から付いてましたけど、何か。」みたいな風格を漂わしており、外すに外せなくなっているということが続いている。
 ぼくはリュックを背負う時にキーホルダーが視界に入り、ミサンガのように金属が摩耗して、どこかで無くなってくれないかなと思いながら、今日も出掛けている。
備讃瀬戸カヤック紀行 September, 2022, #1
 カヤックを始めて半年程経ったため、8月に短期のカヤック旅をするために瀬戸内海へと赴いた。と言いつつも、同時期に僕が参加しているフォトアーキペラゴで3期ぶりの修了展に参加することが本来の目的であった。僕にとっては初めての写真の展示だったため、学ぶことが多くあった。額装が写真に与える影響、写真の配置方法、身体で壁の高さや幅を覚えることなど。
 さて本題。瀬戸内海は内海というだけあり、風速と潮流だけを頭に入れておけば良いため、初心者のカヤッカーが練習するにはもってこいの場所である。また瀬戸内海は700余りにも及ぶ島から成り立っている多島海であるが故に、最悪、風に流されても何処かの島には漂着するだろうという安心感をカヤッカーに与えてくれる海域なのだ。
 僕がカヤックを漕いだ備讃瀬戸という地域は岡山県と香川県の間の海域のことである。高松での設営後、岡山県の宇和で一泊し、翌日は天候待ちをしつつ、笠岡港から出発した。この時点ではゴールを明確には決めておらず、時間が許す限り漕ごうと考えていた。真夏の瀬戸内海は陸地程ではないが、異常に暑く、終始海水を手で掬い首に掛けながら漕ぐ羽目になった。全日程を通して感じたことは、瀬戸内海では正午頃に海況が一番良くなるということであった。海況がいい日には海面が鏡面のようになることさえあった。1日目は午後から出発したため、あまり距離を伸ばせず、笠岡諸島の白石島でキャンプをすることにした。
 瀬戸内海を漕いでいて最も気をつけなければならないのは他船の存在だ。備讃瀬戸の海図を眺めていると至る所に破線があることがわかる。当初は展示会場から近い高松港周辺から小豆島に渡ろうと考えていたのだが、本船航路を渡らなくてはならないため、初心者の僕にとってはハードルが高く、最悪の場合プロペラに巻き込まれて海の藻屑となる可能性があったため断念した。本船航路を渡らずとも瀬戸内海のそこかしこでは船が往来しており、窃盗を行った後の犯罪者のようにこそこそと素早く海を渡る必要がある。
 2日目は笠岡諸島をアイランドホッピングしながら本島まで漕いだ。カヤック旅の基本的な巡航速度は決められていないものの、時速6kmで50分漕ぎ、10分休憩が望ましいと教わったため、その通りに漕ごうと努めていた。しかし、初心者がこの巡航速度で8時間や9時間ほど漕ぎ続けることは無理だと2日目で僕は悟った。理想であれば1日40km程漕ぎたいものの、漕ぐフォームが固まっていないことに加え、腕の力みが取れず直ぐに疲れてしまった。結局1日目と合わせて38kmという異常に遅い航行となった。

 3日目になると疲労は溜まりつつあるが、慣れも出てきて32kmを漕いだ。本島から瀬戸大橋を越えて直島の隣の葛島まで。瀬戸芸の開催期間と重なったため、直島でカヤックから降りて少し散策。身体が臭かったため、I♡湯で入浴しようとしたが、手持ちの現金が足りず断念することになった。直島の裏というか観光船が停泊しない場所では三菱マテリアルが島で開発を行っており、上陸厳禁と書かれている浜が多数あった。エネルギーの恩恵に預かっている都市生活者としては反抗する権利など持たないため、おとなしく隣の葛島へと渡りキャンプすることにした。
 カヤッカーのデイリールーティーンは朝5時頃に起きる。テントから這い出てきて、お湯を沸かす。僕の場合、味噌汁を朝一に飲む。残りのお湯で前日に炊いた飯盒に残っている米をお茶漬けにしたり、その日の気分で味噌汁を入れ、ねこまんまにして朝食とする。アウトドアにおけるご飯は軽さと熱量で考えるため、美味しさは二の次、三の次となる。以前、具なし棒ラーメンを山行中に食べ続けた時は流石に飽きてしまい、登山することも面倒になってしまったことがあった。だが、カヤックの場合は荷物をカヤックに積めるため、多少の重さは無視しても良いというメリットがある。そのため、今回は豪勢に無印良品で購入したレトルト食品を持っていくことにした。これが旅行中の楽しみの一つとなった。値段が安い商品から5つほど持っていったのだが、胡麻味噌坦々スープが一番美味しかった。他の楽しみとしてはコーラを飲むことである。さまざまな島に寄るため水分補給のついでに1日1本までと決めて飲むことにしていた。瀬戸内海の島々は基本的にどこの島でも美しいが、赤い自動販売機があると美しさが増すことがこの旅行中に分かった。1日漕いで疲れた身体に冷えたコーラを染み込ませることは僕にとって欠かせない儀式のようなものになった。どこの島かは忘れたが、普通のコーラが売り切れでゼロカロリーのコーラだけ販売されていた時は憤慨した。1日に数十キロ程漕いでカロリーを大量に消費するカヤック旅において、ゼロカロリーなど意味がない。カロリーが高ければ高いほどアウトドアでは「善」とされるからだ。
 4日目の航海距離は自己最高記録の40kmに到達した。牛窓を越えて日生まで到達する。牛窓(僕はぎゅうそうと呼んでいた)は以前から風光明媚な場所として知っていたが、実際に行ってみると確かに風光明媚な場所で夏のバカンスには適した場所だなと思った。爽やかでスタイリッシュなウィンドサーフィンを横目に人気のないカヤックを漕ぎ(今回の旅では他のカヤックを一つも見かけなかった)、牛窓の海水浴場で一休みすることにした。

 海の家が数軒開いており、気温も高かったためかき氷を食べた。もちろんシロップはみぞれを選んだ。みぞれを選ぶと、ただ甘いだけじゃないかと馬鹿にする輩が必ずいるが、かき氷のシロップの味は香料と色を加えて作られているため、僕からしたらそんなものに騙される嗅覚をお持ちの方が馬鹿だということになる。それにハワイに行ったことがないくせに、ブルーハワイを食べ、真っ青な舌を出して「みてみて」とか言っているカップルの方が間抜けだと思う。ただ悔しいだけかもしれないが。

 この日は行けるところまで進もうとしたことが間違いで、寝床を見つけるのに手間取った。日生には牡蠣畑があり、適当な浜があまりなかったり、あったとしても猪の親子が生息しており、やっと浜を見つけた時には日がとっくに暮れていた。テントを張り、ご飯を食べ、寝支度をしていると近くまで波の音が聞こえてきたため、テントのジッパーを開け顔を出してみると、水が目の前まで迫ってきていた。かなり疲れていたため、濡れても良いかと一瞬迷ったが、これ以上濡れると荷物と僕から耐え難い匂いを発する恐れがあるなと思い、テントの位置を後方へと移動し眠りに落ちた。

 5時ごろに目覚まし時計が鳴る。ガスバーナーでお湯を沸かし、味噌汁を飲みつつ、夕飯の残りの白米に無印良品で購入したレトルトをぶっかけて朝食とする。テントや道具を片付けていると小雨が降り出してきた。スプレースカートを腰に巻き、レインウェアを着てカヤックに乗り込む。磯と牡蠣殻の匂いに後ろ髪を引かれながら最後のキャンプ地を後にした。まばらな雨雲から朝日が差し込み、海面では繊細な光が踊り始めた。
 日生駅近くの港まではひたすら牡蠣畑が連なっており、日本人の牡蠣好きには驚かされる。旬の季節になると全国の洋食屋、スーパーマーケットでは瀬戸内産と書かれたカキフライが食事の主役になる。冬にお気に入りの洋食屋でカキフライを食べることを想像しながら、僕はゆっくりと港へと向かっていった。