1997年 0歳 9月18日に出生。
実家は東京都文京区千石。予定日よりも遅く生まれ、母親の腹の中でうんこを漏らし母体が少し危ない状態だったそうだ。名前は父親が作家の高村光太郎にあやかって決めたそうだが、おそらく父は高村光太郎の詩を読んだり、彫刻をまともに観たことはないと思う。
2001年 4歳 文京区小日向台町幼稚園入園
2004年 7歳 文京区立大塚小学校入学
2006年 9歳 小学3年生
夏休み直前の放課後にジャングルジムの1番上から裸足で飛び降りる。なぜ裸足だったのかは覚えていないが、裸足で飛び降りたことが原因で左脛をまっぷたつに骨折した。「バキ」という音が聞こえたものの、自分の骨からその音が鳴ったとは思わなかったため、立ち上がれないことに戸惑った。その後痛みに襲われ、先生たちによって担架で小学校の隣にあった健生病院に運ばれた。夏休み前に骨折したことが原因でその夏は家で過ごしていた。
夏休みにどこにも行けなかった僕を父親は不憫に思ったのか、グアムに1週間行くぞと言い、父と2人で2学期の頭にグアムに行った。飛行機に乗るのは人生で初めてで、座席が広くなかなか快適だなと思っていたところ、後からビジネスクラスで行ったと知らされる。その後に本当は、ファーストクラスの席が空いていたから、無料でアップグレードしてもらっていたということを知らされ驚愕した。もう今後の人生でファーストクラスはおろか、ビジネスクラスにも乗ることは無いだろうと今になって思う。機内食は口に合わず、毎食残していた。グアムでもホテルにあるプールには毎日行っていたが、海に行くことは一切無かった。あとはホテルの前の大通りを渡ったところにあったコンビニで海外仕様の遊戯王を買ってもらって、ホテルの部屋で1人で遊んでいたことを覚えている。なんのためにグアムに行ったんだろう。
2010年 13歳 文京区立第一中学校入学
スポーツが盛んで野球部があるという理由で一中に進学した。父親もこの中学校を卒業していたということも影響していると思う。父親が野球をやっていたからという理由で野球部には入ったものの、小学校のときは地域の野球クラブに参加することはなく過ごしていたこともあって、同級生の中で一番下手くそだった。それでも身体を動かしたりすることは好きだったから、野球部を卒業するまで辞めることはなかった。
2013年 16歳 私立京華高等学校入学
高校というものに全く興味がなく、ここがいいんじゃないかと両親が探してきた高校をいくつか受験した中で奇跡的に受かったところに進学した。奇跡的に受かったというのは、高校進学そのものに興味がなかったし、なぜ行くのかという意味も見出せていなかったため、自分で高校を探すことをしなかったし、受験勉強も殆どしなかったからだ。中学校での成績が酷く、特定の科目では赤点(25点未満)になるような状況だったから、塾には通っていた(通わされていた)。学校での数学の成績が軌道に乗ってきたものの、受験数学という言葉が正しいのかどうかは分からないけれど、受験校の過去問では合格点に達した覚えがない。そのこともあって、進学した京華高校の入学試験でも受かったという手応えは全くなく、どちらかというと、「あー落ちたかもな」と考えていた。結局、合格した上になぜか「特進コース」という3段階あるコースのなかで、まぁまぁな大学を目指すという真ん中のコースに進学することになって、意味が分からなかった。後から考えると、取り敢えず生徒を集めるために合格最低点をかなり低く設定しているんだろうなという結論に至った。
高校でも野球部に所属していたけれど、高校2年か3年ぐらいの頃に、自分には集団行動が合わないということが薄々と分かってきた。それでも同級のチームメイトは人数が少なかったこともあって、割と仲が良かったし、今でも飲み会が開かれれば顔を出している。
在学している時には色々と問題も起こったのだけれど、文章にすると笑い話では済まなかったりするから、ここには書かない。
2016年 19歳 浪人生活
受験校全てに落ちて浪人生活に突入した。野球部の友達と見栄を張ってレベルの高い、似たようなところを受験したのだけれども、彼は一校受かり、僕は流石に受かるだろうとたかを括っていた大学にさえ落とされてしまった。彼は結果に満足できなかったようで、彼も浪人し、その後見事に上智大学に進学していた。
正直に言って、高校進学の時と同じように大学進学にも興味が全くなかった。なんとなく、偏差値が高い大学に進学しておいた方がいいだろうという考えもあって、偏差値の異なる幾つかの大学も含めて受験した結果が全落ちだった。どこにも引っ掛からなかったことは少しショックだったとは思うのだけれど、まぁ殆ど勉強しなかったから当たり前だなと落ちてから1週間後くらいには思うようになっていた。
四谷学院という四谷にある予備校で予備校生活が始まった。夏休み前まで、つまり6月の終わり頃までは全授業に真面目に出席していたのだけれど、受験勉強に飽きてしまい、午前中の授業が終わると、午後は適当に散歩したり、古本屋で本を買って、喫茶店で読むというような毎日を送っていた。お昼代に毎日1000円を貰っていて(今考えると貰いすぎだと思う。成長期だからいいのかもしれないけど)、500円でお昼ご飯を済ませ、100円か、200円で古本を買い、300円でチェーンのスタバとかでコーヒーを飲みながら読書をするというような日々だった。
それまで本なんて一切読むような習慣がなかった僕が、高校の終わり頃から突然読み始めたのは勿論理由があった。まず、父親に沢木耕太郎の『深夜特急』という埃が被った本と、立花隆ゼミの『二十歳の君へ』という本(こちらは新しかった)を渡されたことが大きいと思う。どちらの本も18、19歳の僕にとっては刺激的で止まることなく最後まで読んでしまった。あとは、志望校の出題科目に少し長めの小論文が要求されていたこともあって、知識がなければなと思って色々な本をこの時期に乱読していた。確か1年間で100冊以上は読んでいた。出版されている本全てが素晴らしいと思わなくなったのもこの時で、この出版社はダメだなとか、この著者はダメだと勉強していた時期でもあった。
結果として現代文の問題演習をしていないのにも関わらず、現代文の成績が異常に伸び(元々が低かったこともある)、英語も嫌いではなかったため、少しだけれど勉強していて、読める英文の幅が広がっていった。小論文は僕の性格に合っていたみたいで、自分の意見を論理立てて書くという訓練は一番好きだった。別に自分の文章が上手いとは思わないし、誰かよりも優れているとも思わないのだけれど、今でも何か文章を書くことが好きなのはこの時の経験が大きいのと、以前の自分よりも良く書けているなと思えるようになるのは単純に嬉しいのである。
大学受験の方はどうなったのかと言うと、第一志望の大学には落ちて、センター試験で受かっていた第二志望の東洋大学に進学することになった。この二つの大学は偏差値的に言うとかなり幅があったので、その中間にある青山学院大学も受けろと父親に言われ、受験料まで払ったのだが、仮に受かったとしても進学する気は全くなかったので、実際には受験しなかった。受験日にはさも、今から受験してきますと装って、古本を買って喫茶店で読み過ごしていたことを今でも覚えている。両親には申し訳ないとはあまり思わないけれど、35000円の受験料を無駄にせず、全部書籍代として使っておけばよかったと後悔している。35000円もあれば古本だけでなく、新しい本を何冊でも買えたから。