Branch
2026, Christmas trees, metal, soap finishing, Dimensions: 50 cm x 400 cm x 10cm
In this project, I explore how individuality is formed through personal experience. I use the frame of a kayak as a central motif, as I am a sea kayaker and often reflect on the question “What am I?” while kayaking. This personal connection allows the kayak to function as a metaphor for the individual. The kayak represents a single human being, while paddling reflects the attempt to direct oneself within uncontrollable conditions. Water movement is shaped by natural forces such as wind, waves, and tidal currents. As a result, I exist between active and passive control, never fully in command of my direction. Similarly, human individuality is shaped not only by personal choices but also by uncontrollable events that can interrupt, alter, or damage the process of self-formation, mentally and physically. Although these forces may be harmful, they are necessary for forming and understanding one’s identity.
Also, I would like to think about the other artists who use boats and vessels as motifs. Historically, many artists have used boats or vessels as motifs, treating them as symbols that carry meaning or lead us somewhere. However, I often feel these works miss something essential. After reading several books, including The Old Man and the Sea by Hemingway, I realised many artists ignore the relationship between the sea and the vessel. Lacking direct experience of the sea, their expressions remain metaphorical rather than lived.
Because of my many experiences kayaking, my perspective on the sea and the vessels has changed profoundly. To put it simply, the romanticised images of the sea are only fractions, I would say, of the imagination of those who have never truly experienced seafaring. In reality, the relationships between the sea, the vessels, and ourselves are far more fluid: many boundaries seem to vanish, or exist only as vague, shifting presences.
このプロジェクトを進めるに当たる前に考えていたことは、個人をテーマにしようということである。私にとって個人というテーマを扱うのは手に負えないかもしれないと思っていたのだが、RCAに来てみてチャレンジ精神というか、実験精神というか限りある学生期間の中で新しいことをしてみようという気持ちが芽生えてきたことが、このテーマに着手する契機になったと思う。
元々は私自身が小学三年生の時に骨折した経験と少し前に読んだ本であるイタロ・カルヴィーノによる『まっぷたつの子爵』を土台にして、ジャングルジムをモチーフとした作品を制作しようと考えていたが、予算やスペース、さらにはそれを作った後の広がり、つまり普遍性が生まれるかということに少々、疑問というか、まだ自身の頭ではそれに至る考え方が発酵しきっていない、ということに気がつき、カヤックをモチーフにして個人というテーマについて作品を制作するに至った。
私は主にカヤックを旅の道具、そして作品制作におけるさまざまな思考が生まれる羊水のような役割として扱っている。シーカヤックを一人で漕いでいる時に基本的に考えることは、「カヤックを漕いでいる私という存在は何だろうか」ということである。恐らく、このような答えのない問いが頭につきまとわってしまう理由としては、まずカヤックを何時間も漕いでいて疲れているからである。例えば、エスケープルートを絶って、海峡や湾を何時間も掛けて横断する際に、途中で「なんでこんなことをやっているんだ」という気持ちに必ずなる。もちろん、退路を絶って横断することを決めたのは私自身であるし、それを行うことによって何かしら自身の中での変化が生まれることを望んでいるのではあるが、それにしても長すぎて、嫌になってくるのである。さらには退路がないために(休憩するために寄れる島も途中にはない)漕がなければ終わらないのである。そしてそんなことを決めた自分自身に嫌気が差し、「私はなぜ、こんなことを行なっているのだ」ということを延々と考える羽目になるのである。それが、私の存在について、引いては個人というものはどのようにして形成されていくのかということについて考える契機となった。
このプロジェクトでは様々な経験が如何にして個人を形成していく仮説を立てることを主題とし、さらには、過去のアーティストが用いてきた舟というモチーフを批判することをも目的とする。カヤックで旅をしている際に実感することは、境界線のなさ、常に不安定な状態にあること、進んでいるのか、進んでいないのかがわからない、天候が良いにも関わらず、海況が悪いと非常に不安定な精神状態に置かれること、等々である。なかでもカヤッカーにとって海況の良し悪しによって、その日の行程が左右される。風が強ければ、風下を探しながら進まなければいけなくなり、その日の目的地の変更も迫られる。最悪の場合であれば、その日にキャンプをしていた場所に停滞を強いられることもある。また、月の引力による潮汐の緩慢によって、潮流が激しくなるところは避けなくてはならないこともある。その逆に風や潮を上手く利用することができれば、自身が想定していたよりも楽に目的地まで辿り着くことだって可能になる。つまり、カヤッカー引いては舟を扱う人間は宇宙規模での自然の論理に従って予定を決められることになる。そこに傲慢にも自分の意思を大きな割合で介在させようとすることで、最悪の場合は死に至るような事故に遭ってしまう。そのため、私たち、つまり舟を扱う人々は他者(自然)の論理の中に身を委ねることになるのだ。そしてその論理を身体化、あるいは身体知として獲得することでしか、我々は海では生きていくことができない。
同様に人間社会についても同じようなことが起きていることがここから類推できる。私たちは日常生活において様々な論理に従って過ごしている。それは家庭での論理、会社での論理、公道での論理、あるいは電車内での論理などである。それらの場所にはそれぞれの論理が発達しており、私たちは時間を掛けて、それらの論理を会得することで、自己を生かしている。社会から要請される論理を内面化することは、謂わば自己防衛をすることでもあり、その論理から大きく逸脱してしまうと「社会」と言われている場所での生活は困難を極めることになってしまう。そして様々な論理は自分以外の他者が築き上げてきたものであり、自分だけではコントロールが不可能なものである。私たちはそられの論理=つまり他者からの絶えざる影響を受け続けることにより、自身の針路が決まっていくことが往々にしてある。最早その針路は自我意識とは無関係で決まってしまうことだってある。この点において、まさしくそれは海で一枚の葉のように漂う小舟と同じ状態にあるのではないだろうか。
しかし、これは私の実感レベルでの話なのだが、陸上で生活している人間は多くの場合において、すべては自分の意思のみで物事が進んでいると思い込んでいる節があるように感じる。それが顕著に見られるケースとして近年の日本社会における(海外では分からない)自己責任論というものがある。簡潔に説明してしまうと、自己責任論とは「それはあなたの意思で行ったのであるから、責任の全てはあなたが負うべき」というものである。例えばハイキングに行って、下山途中に登山道の状態が前日の雨の影響でぬかるんでおり、谷側に寄りながら歩かなくてはいけなかったとする。そこで足を踏み外す、あるいは滑らせてしまい滑落してしまうとする。そして自力では下山することが困難になり、県警などのヘリコプターを飛ばしてもらい、救助されるというケースがあるとする。その際に言われることは、自分の意思でハイキングに行ったにも関わらず、救助=他者を動員させることで税金を使うなということである。つまり、全ての問題を他者に頼らず自己解決しろと云う趣旨の発言が散見される。もう少し日常的な例を出してみると、ある街にはスーパーが一つしかなく、そこに辿り着くには特定の道を通らなくてはならない状況があるとする。その道の真横には丘の斜面があり、崩落の危険性もあるとする。しかし、住人は食料を買いに行くためにはこの道を通らざるを得ない。しかし、ある日そこの道を通った住人が崖からの崩落に遭い、脚を負傷してしまうとする。そこで救急車を呼ぶのだが、他者はこの場合においても「危ない道を通るあなたが悪い」と言えるのだろうか。
前者にもう少し例を付け加えておくと、その事故に遭ってしまったハイカーは、自身が最近になって見始めたハイキング系インフルエンサーの影響でハイキングを始めたとする。そのハイカーがこの山の頂上からの景色は絶景だと言っていたため、その山を登ることを選んだとする。もちろんこの事故に遭ってしまったハイカーは初心者のため、自身での安全基準の判断が確立しておらず、その山に行くための体力レベルなども伴っていなかったとする。そして「絶景だ」と言われていた景色を見るためにその山に行き、下山途中に事故に遭ってしまったとする。ハイキング系インフルエンサーはある程度の経験はあり難易度などを理解していたにも関わらず、自身のソーシャルメディア上の投稿では危険喚起などを行っても、チャンネル登録者数やフォロワーの獲得には直接繋がらないために、それらの情報は端折っていた。これでもその事故に遭ってしまったハイカーは全ての責任を自身で負わなければならないのだろうか。
ここで言いたいのは誰に責任の所在があるかと云うようなことではなく、私たちは不確定多数の他者に影響されて、自身の行動を選択している、あるいは選択させられているということである。そのような状況の中で自己責任という極端な言葉で責任の所在をピンポイントで見つけることは事実上不可能である。しかし、前述したように陸上生活では自分の意思に従って自身は行動していると思い込んでいるが故に、責任の所在は全て自身の決定にあると勘違いしてしまっている部分があるかもしれない。
なぜこのようなことが起きてしまうのかと言えば、現代では都市型の生活が基準になっているからなのではないかと考える。つまり、自然から隔絶された全てが人工的にコントロールされているかのように見える環境に長く身を置くことによって、ある種の安定を得ることに繋がり、その安定さは自身でコントロールできるものだと勘違いしているからだ。極端なことを言ってしまうと、さっきから私は「陸上生活」という言葉を繰り返し使っているのだが、基本的に動かない(地震とかはあるが)大地の上で常に安定した生活をしていることが、この自己責任論が発達してしまう原因なのではないか。謂わば、自己防衛反応の結果として不安定さを排除していくことによって、私たちは生き延びていること自体が自己責任論、引いてはすべての事象は自分の意思で動かせると考えてしまう原因にあたるのではないかと考える。
一方でカヤックという乗り物は、自発的に不安定さを内在させ、またその不安定さを自身に認識させるある種の方法論だと私は考えている。前述したようにカヤックで海を移動することは常に不安定な状況に置かれ、その不安定さを受け入れることでしか、旅というものを続けていくことができない。そして私は「人間という存在は様々な不確定要素に囲まれて生きている」と実感し、そこにはある種の諦念と言われるものまでもが萌芽し、私が陸上で培ってきた論理を揺さぶるのだ。
國分功一郎氏による『中動態の世界』を読んだ際にまさしくカヤックという乗り物は中動態そのものだと感じた。中動態という態をここで詳細に説明することは難しいのだが、ごく簡潔に説明してしまうと行為者自身が「座」になるということである。古代ギリシャ語には現在でいう受動態がなく、能動態の反対の態として中動態が存在していた。能動態は行為が主語の外で完結することに対して、中動態では主語が過程の内部に存在することを指す。つまり、中動態とは能動態における「する」と受動態における「される」のどちらでもなく、さらに中間でもなく、ある作用の中に身を晒すあるいは晒されるというどちらつかずの状況に位置することを指す。それは「座」としか言いようがない。その「座」をカヤックに置き換えて考えてみると、カヤックとは制御不能な現象が作用している海に浮かぶ一枚の葉でしかないという情景がありありと頭に浮かぶ。海とは境界線が消失することで様々な事象が曖昧になり、自然という他者が私たちの行先の決定権を握っていると再認識させられる場所である。
前述したように人間社会では自分ではどうすることもできないような現象が日々起きる。同じように、人間も自分自身ではどうすることもできなそのような出来事は時にあなたの意志を妨げたり、状況を変化させ、さらにあなたは精神的、物理的にダメージを負うことだってあるだろう。もちろん、なかには良いことも少なからずあるとは思う。そのような自分だけではどうすることもできないような状況が個人というものを形成しているのだと私は仮説を立てている。
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さて、もう一つのテーマである、過去のアーティストが用いてきた舟というモチーフに対する批判に話を移したいと思う。前提として、それらのアーティストに対して舟をモチーフとして使うなとかそういう話をしたいわけではないことを言っておく。
舟というモチーフはアーティストにとって簡単にメタファーを込められる存在であると認識している。そのためか、固有名は出さないが、本当に多くのアーティストが舟を作品内に組み込んできたことがちょっと本などで調べたり、美術館に行ったりすれば分かることである。ただ、それらの作品ではほとんどの場合、舟というものは何かを運んできたり、どこかへと導いてくれる存在のメタファーとして取り扱われている。しかし、私はそれらの作品を見る度に思うことがある。それは「いつまでそんな紋切型のメタファーとして舟を扱っているのだろうか」ということである。なぜそのような紋切り型の表現に収束してしまうのかを一言で言ってしまうと、彼ら彼女らには舟で旅をするという経験が欠如しているということが挙げられる。もちろん、観光船に乗ったりしたことはあるだろうが、そこには生の経験がなく、かなり浅い部分での理解に止まっているからだと考えた。さらに言ってしまうと、過去のアーティストは舟と海の関係性を無視し、殆どの場合は舟というモノだけに焦点を当てていることが、私が前述したように感じたことの原因であると思う。舟と海は切り離すことができない存在同士であり、どちらかを一方的に取り出して、表現することは不可能と言っても過言ではない。このように気づかされたのは、海を舞台とした本を数冊読んだことがきっかけだった。角幡唯介氏の『漂流』やヘミングウェイの『老人と海』などが挙げられる。これらの本では、私が普段海で旅をしている時に感じていることがそのまま、あるいは私の理解が及ばぬレベルで海という場所に出ていくことはどういうことなのかということが書かれていた。
それらの本や私の経験と過去のアーティストが舟をモチーフとして扱った作品を比べてしまうと、どうしても、それらの作品はただの紋切り型の表現にしか見えなくなってしまうのである。つまり、それらの作品は制作者であるアーティストの生き方が全く反映されておらず、陳腐なものにならざるを得ないのだと思う。